石鎚山は日本百名山及び西日本最高峰の山であり、多くの登山者で賑わう山です。
開山千三百三十年の歴史を持ち、山頂から麓まで神社が鎮座し信仰の山である事を物語っています。
今回は石鎚山に鎮座する各神社と由来、信仰についてお話したいと思います。
石鎚山とは?
石鎚山は愛媛県と高知県のほぼ県境に位置し、西日本最高峰及び日本七霊山の一つとして数えられ、古代より山や岩などの自然には神が宿ると信じられる思考から、石鎚山も山頂付近の大きな岩の塊の山容に神霊が降臨すると考える典型的な神体山信仰の一つです。
石鎚山の名前は伊邪那岐命と伊邪那美命が二番目に生んだ石土毘古神に由来しますが、かつては石土山、石鉄山、石槌山と呼ばれ、山頂付近にある奇岩の天柱石に神が降りると信じられた為に石の付く山名が古来より受け継がれてきたと思われます。
また、石鎚山は無名時代の弘法大師空海が修行した山とされ、修験道の開祖役行者により開山された山から、修験の山として歴史を歩んできた山です。
石鎚神社とは?
石鎚神社は麓の口之宮本社、山の中腹の中宮成就社、同じく中腹の土小屋遥拝殿、山頂の奥宮頂上社、の四社から成り立っています。
同じ神様を祀っているにも関わらず、このように何社もお社を建てられているのは、日本人の信仰の原型ともいえる神体山信仰が影響されています。
神体山信仰は農耕生活と関わり、簡単に言うと春に山に降りた神様を農村に迎え入れ、収穫まで豊作を願い、秋に無事に収穫を終えたら再び山に戻ってもらう流れであり、山頂部は神が降りる重要な場所である山宮(奥宮)とされ、村に近づくにつれ里宮や田宮と言われ、山頂から一直線に神を迎える場所を設け、山そのものを神として仰ぎ祭祀を行っていました。
よって、仏教伝来以前は石鎚山も天空に聳える尖った峻険な山容を恐れ敬い、そこに神霊が降りてくると信じる純粋な神体山信仰でありました。
そして仏教の伝来以降は修験の山として開山され、山の中腹に横峰寺、前神寺が建立され、両寺は石鎚神社の別当寺として明治の神仏分離令まで石鎚信仰の中心とされ、
明治以降は純粋な神社として歩み現在の形態に至っています。
参考:石鎚神社ホームページ
口ノ宮 本社
石鎚神社の口ノ宮本社は石鎚山の麓に位置し、里宮的存在の神社です。
神社の重要なお祭りである夏季大祭(山開き)は本社の御神像三体が本社を出発し、里ヶを巡り、成就社、頂上社まで信徒達に見守られながら運ばれ、御神徳が山全体に行き渡り再び本社へ戻る、七月一日から十日までの期間に斎行されるお祭りで、本社は最初と最後の役割を担う神社であります。
国道11号沿いに建てられた巨大な鳥居を進むと、立派な神門が現れます。
神門をくぐり駐車場を越えると、これまた立派な石鎚神社会館が現れます。
石鎚神社、石鎚本教の行事や祭典の際に利用され、大祭には多くの信徒が集まる為に宿泊施設も完備されているそうです。
境内図です。
参拝の際にここに注目してもらいたい。
石鎚神社の階段の手すりはご覧の通り、鉄の鎖になっています。
これは何かというと、石鎚山の鎖場に掛けられた鎖であり、古くなった鎖は処分することなく境内の手すりとして再利用され、修行の出来ない方や登れない方に少しでも石鎚山の霊気を分け与える為に設置した有難い手すりです。
石鎚山の鎖場の様子はこちらで↓
何度も握られたのか、鎖はすり減っている様子で、触ってみると修行者たちの石鎚山に対する思いが込められているように感じます。
広々とした拝殿
夏のお山開きには大勢の方で埋め尽くされるのでしょう。
境内には御神水もあります。
山から湧きだした水を誰でも受ける事の出来る有難いお水です。
遥拝殿
境内には本社を参拝がてら霊峰石鎚山も拝む事が出来ます。
神体山信仰の神社にはほとんどこのような遥拝所があります。
いかに山の神様を第一に考えている事が分かります。
本殿の他に是非参拝してほしいのが祖霊殿
神社において最も重要なのは御祭神ですが、石鎚神社に来られたらこの祖霊殿も一緒に参拝する事をおすすめします。
この祖霊殿は石鎚山の開山である役小角をはじめ、石鎚信仰に関わる人たちの御霊が祀られています。
古来より日本人は死んだら山や海などの他界へ向かい、死者に思いを馳せる事でいつでも子孫を見守ってくれる存在だと信じてきた民俗です。
祖霊殿と名付けられるのは、たとえ血の繋がらない者同士でも同じ信仰を歩んできた者は皆家族同様と捉えられたのではないかと思われます。
登山として石鎚山へ登られた方も神社に寄られた際には祖霊殿で手を合わせ、無事に登られた事、石鎚山の霊気に触れられた事の感謝の気持ちを伝える事も大切です。
明治以降神社の境内には仏教と明確な区別をする為にあらゆる仏像を撤去されました。
石鎚神社の境内には役小角や弘法大師空海の像が祀られています。
石鎚信仰は神仏混淆の時代が長く続き、明治以降も神仏混淆の色が根強く残された珍しい神社なのでこのような光景はなかなか見られません。
中宮 成就社
麓から山頂までの間に中宮成就社が鎮座しています。
成就社となっていますが、ここは元々前神寺という石鎚神社の別当寺として建てられ、頂上へ向かう際の重要な拠点だったそうです。
成就という名前ですが、役小角がこの地で開山を願い無事に成就したことから、所願成就の宮として成就社と名付けられたそうです。
また、他にも山伏が常に常住するところに起因し、常住する事から山に籠るという意味で山籠とも呼ばれていました。
心願成就と掲げられ多くの登拝者や参拝者がここで祈りを捧げていたと思われます。
本殿の横には見返遥拝殿が建てられています。
中の正面は石鎚山が見事に眺められ、山頂に登る事の出来ない方にも山頂を拝む事の出来る有難い社殿です。
ここからいよいよ登拝開始です。
立派な神門を越えると急な登りや険しい鎖場が待ち構えています。
しっかりと体調を整え、成就社でお参りをした後に登りましょう。
境内のすぐ横には旅館があります。
昔は恐らく宿坊として機能していたのではないかと思われます。
奥宮 頂上社
神体山信仰で最も重要とされるのは実際に神霊が降り立つとされる頂上に鎮守する奥宮です。
三ノ鎖を登り終え、目の前には神霊が降りるとされる磐座がございます。
古代には現在のような社殿は存在せず、神は樹木や岩石に宿ると信じられ、その場で祭祀が行われていました。
つまり、そこに神の存在を感じたのならすぐに祭場を作り(そのことを磐境イワサカと呼ぶ)、いつどこでも祭祀を行う事が可能でした。
この自然崇拝をきっかけに、常に神霊を感じたいという願いから社殿を有する神社が建てられたという事なのです。
この磐座もご覧の通り社殿も無く、古代の祭祀を受け継がれた姿で鎮座している事が分かると思います。
磐座の隣には御祭神である石鎚毘古命の御神徳を表す三体の御神像が安置されています。(残念ながら撮影禁止との事)
頂上には元々、神仏混淆時代は三体の蔵王権現が祀られていました。
蔵王権現は開山の役小角によって感得され、石鎚山にも祀られたことから大峰信仰の影響があると考えられます。
また、現在の石鎚神社では御神像拝載という特殊神事が行われています。
これは三体の御神像を直接体にあて御神徳をいただく神事で、神仏混淆時代の三体の蔵王権現をさすることに由来されているのではないかと考えられます。
御神像に直接触れることの出来る全国で唯一の神事とされています。
実はこれと似たようなこともあり、出羽三山の湯殿山神社には湯が湧き出る御神体を裸足で直接触れることが出来ます。
天狗岳山頂は西日本の最高点であり、多くの登山者が感動する場所です。
その最高点には天狗王子という祠が祀られています。
王子とは熊野権現の御子神であるとされ、つまり熊野権現の分身と考えられました。
修験道では修行者の守り神は童子の姿で現れる信仰があり、この王子も御子神から童子の守り神とされたそうです。
石鎚山にはこの王子が三十六社あり、熊野信仰の影響も受けた山である事も分かります。
土小屋遥拝殿
石鎚山の中腹に鎮座されています。
遥拝という事から石鎚山を遠くから拝むための施設がそのまま遥拝殿として機能されたと思われます。
石鎚山の修行、鎖禅定とは?
石鎚山の鎖場は主に4箇所あり、試しの鎖、一ノ鎖、二ノ鎖、三ノ鎖、とそれぞれ呼ばれています。
試しの鎖
試しの鎖とありますが、これは山伏が本当にこの山で修行出来るのかを試すものであり、鎖に限らず様々な試験があるみたいです。
石鎚信仰の登拝はこの鎖を登る修行が重要で、崖に吊るされた鎖を登る事により邪心が捨て去られ罪穢れを祓い去る、まさに命がけの修行です。
この命がけの修行により人と自然が一体となり、今生かされている事に感謝することも込められているそうです。
石鎚の鎖は全国でも珍しい鉄製の鎖で、更に大きさと太さが他の山と比べ物にならないほど大きいです。
この鎖の一つ一つに奉納者の名前が記され、崇敬者の石鎚山に対する想いが伝わってきます。なので、私は何回か登っていますが、鎖を握ると不思議な事に安心感が湧いてきます。
石鎚山の麓にはゆかりの神仏が大集合
神社ではありませんが、麓のロープウェイのすぐ近くに石鎚信仰における神仏が大結集しているので紹介したいと思います。
一番上の三体は石鎚毘古命の御神徳を表す玉持の御神像、鏡持の御神像、剣持の御神像です。(奥宮で祀られている三体の御神像と同じ姿の像)
玉持の御神像は和魂を表し、家内安全、病気平癒の御神徳。
鏡持の御神像は奇魂を表し、農業、工業、商業、漁業、各事業の繁栄、学業の成就の御神徳
剣持の御神像は荒魂を表し、勇気、忍耐、悪事を除き、危機を守り、厄除海運、諸災消除、交通安全の御神徳とされ、それぞれの魂に役割を持っています。
この(和魂、にぎみたま)、(荒魂、あらみたま)、(奇魂、くしみたま)とありますが、これは一霊四魂(和魂、荒魂、幸魂、奇魂)、もしくは一霊三魂説として考えていると思われます。
神と人間は一つの霊と四つの魂で成り立っているものと考え、魂の性質はそれぞれ諸説あり、四つの魂が補完しあいながら共存していると考えられ、これを神道における霊魂観とされています。
また、和魂は幸魂、奇魂の働きもつとされ、和魂と荒魂の二魂として考えられる事もあり、神の御霊についてもこの二魂で区別されています。
例えば神宮の内宮と外宮に祀られている天照大御神と豊受大御神は正宮に和魂を別宮に荒魂がそれぞれ祀られ、神様も穏やかな一面(和魂)もあれば、荒々しい一面(荒魂)も兼ね備えている存在と考えられ、二魂を大切に祀られました。
更にこれは人間にも当てはまり、神葬祭(神道式の葬儀)において、遷霊という儀式の中では亡骸から和魂を取り出し、【霊璽(れいじ)】(仏式でいうお位牌)に移す儀式が行われ、その際亡骸は荒魂となり、これも二魂に分かれることになります。
そして、霊璽に宿る魂は子孫を見守る和魂として墓地には荒魂として存在し、神道では人間は神の子とされているので、死後は神となり、いつでも見守って下さる存在としてあり続け、子孫は年祭(仏式でいう法事)や墓参りで二魂を大切にされ、神と同様な存在になれると言えます。
このように石鎚毘古の御神徳もそれぞれの役割を担う魂で表現され、いかに神道の霊魂観を大切にされていることが分かると思います。
修験道の開祖である役小角像もございます。
蔵王権現
役小角のゆかりの地には蔵王権現が祀られています。
実際に明治以前にはこの蔵王権現が頂上に祀られていたそうです。
表情は恐ろしいですが、疫病や災いという悪魔を阻止し、なおかつ人の心にある苦しみを取り除いて下さる優しさも兼ね備えた仏像です。
弘法大師空海も無名時代にこの山で修行され、やがて四国八十八ヶ所を開かれたそうです。
最後に
石鎚山は古来より山頂付近の峻険な山容からそこに神が宿ると信じられる神体山信仰から始まり、仏教伝来以降は神仏混淆という形で千年以上石鎚信仰として歩み、
現在は形式上、神と仏は分かれ石鎚信仰も石鎚神社と石鎚本教として歩んでいますが、神仏分離令にもかかわらず、今もなお神仏混淆の色を根強く残し、石鎚山の古代から変わらない信仰を守り続けています。
様々な変遷を経て今に至りますが、日本人の素朴な自然崇拝が生き続けているからこそ、石鎚信仰も色褪せる事無く受け継がれているのではないかと思われます。
是非、石鎚山の登山と合わせ石鎚神社も参拝してみてはいかがでしょうか?