毎年恒例の京都旅も数えて何年目か分からなくなってしまいましたが、今年も京都寺社巡りの旅に行ってきました。
ここ最近の京都はやはり外国人観光客が増えたイメージというか、ほぼ外国人しかいない?状況であり、特に定番のスポットに行くと日本人を探す方が難しい状況になっています。
さて、京都の旅も今まで色々な寺社を巡ってきましたが、私的には定番スポットよりもあまり知られていない寺社等を巡る方が好きで、毎年定番とマイナー箇所をピックアップして旅をしています。
今回ご紹介する神社は左京区にある崇道神社というお社です。
崇道神社は比叡山の西部に位置するひっそりとした神社で、人気の少ないひっそりとした場所に鎮座されています。
歴代天皇に数えられない崇道天皇を祀る崇道神社とはどのようなお社か、早速紹介したいと思います。
祟道神社のアクセス、基本情報
アクセス
叡山電鉄叡山本線 三宅八幡駅から徒歩約8分。
バスの場合は京都バス「上橋」下車後徒歩約2分。
【外部リンク】
車の場合は鳥居を潜ってすぐ左側に駐車スペースが有りますが、停めてよいか不明なので、お問い合わせをおすすめします。
基本情報
住所:〒606-0064 京都府京都市左京区上高野西明寺山町34
電話番号:075-722-1486
参拝料:無し
参拝時間:特に無し
御朱印:有り(書置き)
御祭神の祟道天皇とは
崇道天皇とはタイトルの通り、歴代天皇に数えられない天皇(追尊天皇)で、千年の都である平安京を建てた桓武天皇の実弟であり、早良親王と言われていた方です。
早良親王は僧としての一面も持ち、親王禅師とも呼ばれ、後に桓武天皇が重用した藤原種継と共に長岡京の造営に活躍もされました。
ところが、藤原種継が何者かに暗殺される事件が起こり、あろうことか早良親王に疑いがかけられ、その後捕らわれ淡路国に流されてしまいました。
捕らわれた後は無実を証明しようと食を絶ちましたが、願いもかなわず淡路国で非業の死を迎える事となってしまいました。
疑いだけで実弟を死に追いやった桓武天皇はライバルがいなくなり、息子を皇太子に立て、これで順風満帆となるはずでしたが、それと同時に身内が立て続けに亡くなり、更に天変地異が都を襲い、これは早良親王の祟りにちがいないとの噂が立つようになりました。
これに怯えた桓武天皇は急きょ長岡京を廃都し、ありとあらゆる占いや風水を頼りに現在の京都に平安京を建て、早良親王の怨霊が入らない都を造り上げました。
その後も早良親王の御霊を鎮めようと日々僧たちに祈祷をさせ、更に早良親王の死後に「崇道天皇」という追号を贈り一刻も早く怨霊から逃れようと怯え続けたそうです。
つまり、崇道天皇とは早良親王の無念の死から生まれた天皇であり、京都で崇道天皇を祀るのはこの崇道神社のみとなっています。
崇道神社の境内散策
崇道天皇についてサクッと説明しましたが、早速京都で唯一崇道天皇を祀る崇道神社の境内を見学しましょう。
崇道神社は京都の左京区上高野の国道367号沿いに位置します。
道路から鳥居が見え、崇導神社と書かれた大きな石柱も建てられています。
鳥居を潜ると奥の社殿まで長い参道が広がっている様子が分かります。
立派な参道ですね。
参道の中間くらいにも崇導神社の額が取り付けられた鳥居があります。
何故か鳥居の額には崇道ではなく崇導と書かれていましたが、なにか意味があるのでしょうか?
鳥居を潜ると正面に社殿と右に社務所、左には境内社等々が建てられています。
正面奥の崇道天皇を祀るお社の後ろは鬱蒼とした山になっています。
本殿より手前には境内社の伊多太神社が鎮守されています。
由緒によると、伊多太とは湯立てを意味し、出雲系の農業神としてこの地に勧請され、古くからこの地の氏神として祀られていたそうです。
そして明治41年に崇道神社に合祀され現在に至っています。
伊多太神社の隣にもお社がありますが、神棚くらいの小さなお社が建てられていました。
さて、伊多太神社を後にし、正面の階段を上がると吹き抜けの拝殿、幣殿、奥に本殿が見え、昼間でもうす暗い空間になっています。
拝殿から振り返ると、参道の長さがよく分かります。
崇道神社は貞観年間(859~877)に創建され、早良親王の怨霊を鎮めるために建てられた神社ですが、この鎮座地がちょうど平安京の鬼門の位置にあることもやはり意味があると思う。
桓武天皇はあらゆる占いや風水を頼りに、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武という四神に守られる相応の地を見つけ平安京を建て、更に都の東西南北に荒ぶる神であるスサノオを祀る大将軍神社を配置し、これでもかという程都を守ろうとしていたそうで、よほど早良親王(崇道天皇)の怨霊が怖かったのだと思います。
このような怨霊を鎮める信仰は「御霊信仰」と呼ばれ、政治的に非業の死をとげた者が怨霊となって復讐する事であるが、逆にその怨霊を丁重に祀り、畏れ敬う事で恵みをもたらすと信じられた信仰であり、歴史上では多数見られますが、菅原道真の天神様もこの信仰の1つとして考えられます。
この御霊信仰は祟る神も真心込めて祈れば味方になってくれるという信仰ですが、これはどこか自然崇拝にも似ていると思います。
というのも、自然は我々人間に恵みを与えてくれると同時に災害を引き起こす恐ろしい存在である事は古の時代から分かりきった事であり、自然の中に神の存在を感じるというアニミズム的思考が受け継がれてきた民族だからこそ、自然を敵視する事もなく、むしろ常に調和を求め畏れ敬い祈り続けられたのだと思います。
そう考えると御霊信仰はまさに多神教そのものであり、我が国独自の信仰形態の1つでもあります。
大将軍神社にはスサノオが祀られていますが、スサノオも古事記では荒ぶる神として高天原を荒らし追放される事になったが、地上に降り立てば、一躍ヒーローとして昇華されているので、スサノオも御霊信仰の1つだと思われます。
恐らく早良親王も崇道天皇という追号が贈られ、怨霊を鎮める事で都の守りの神として、平安京の鬼門の位置に鎮座されたと思われます。
つまり、平安京とはこの早良親王の怨霊や様々な災いを封じる事を目的に建てられた都と言っても過言ではありません。
平安京に遷都されてから平安時代が始まりますが、早良親王の祟りの他、様々な怨霊が生まれ、天変地異も多く発生したそうです。
平安時代とは煌びやで優雅な暮らしを貴族たちが嗜むイメージが強いと思いますが、その一方で実は怨霊や祟りが付きまとう時代でもあり、平らで安らかな時代であったとは到底思えません。
平安京はご存知の通り千年の都として、明治まであり続けてきた都です。
それはつまり、千年もの間、早良親王や様々な怨霊や祟りと向き合ってきた事ではないでしょうか。
平安京を建てたのは桓武天皇ですが、実はこれ以降遷都を禁止したのは、桓武天皇の二代後の嵯峨天皇で、度重なる遷都は税の負担になり、政治も乱れるとの事で提案したそうです。
しかし、千年の都となったのは政治的な一面だけでなく、実は怨霊や祟りを鎮めるには未来永劫祈り続けなければならないと嵯峨天皇は思ったのかもしれませんね。
また、余談ではありますが、早良親王は親王禅師と呼ばれ、僧としても活躍されたお方であり、よく坊さんを殺すと呪われるというのは、実はこの出来事から始まったのではないか…と思ってしまいます。
さて、話が長くなりましたが、本殿以外の境内社を見ていきましょう。
本殿の向かって右に天照大神、豊受大神の伊勢の神様と、その隣に出雲高野神社が鎮守されています。
お社は天照大神が祀られている方が大きいですね。
向かって左には日吉大神、貴布祢大神、恵比須大神の三柱が祀られていました。
その他、本殿の階段下にも境内社があり、小さいお社ではありますが、多くの神々が祀られていました。
崇道神社の境内社、小野神社と小野毛人の墓
さて、参道の2つ目の鳥居を潜りすぐ右に曲がると広場になっていて、こちらにも境内社が祀られているので立ち寄ってみましょう。
少し広い広場には小野神社というこぢんまりとしたお社が建てられています。
こちらの神社は神社名の通り小野一族が祀られ、日本で最初の遣隋使である小野妹子を始め、その子である小野毛人が共に祀られています。
元々の鎮座地は現在の崇道神社の場所と考えられていますが、実際は崇道神社の川向にある里堂と呼ばれる神輿庫の奥の森に鎮座されていたらしく、こちらが濃厚だそうです。
小野妹子と一緒に祀られている小野毛人のお墓もあり、小野神社の隣にはお墓へ続く登山道もあるので、こちらから登りましょう。
ちなみにお墓までは約5分くらいかかります。
登山道を登ると何やら結界のようなものが見えてきます。
どうやらこれが小野毛人のお墓のようですね。
結界の中心には石碑が建てられ、厳重に守られているように見えます。
慶長18年には墓誌が発見され、この墓が小野毛人の墓である事が証明され、大正3年に墓誌は国宝に指定され、現在は京都国立博物館に保管されています。
ちなみに小野神社の隣には何故か役行者像が安置されていました。
崇道神社の背後には西明寺山という山が聳え、小野毛人の墓もこの山にあるのですが、墓から先にも登山道が繋がっている様子でした。
役行者像が安置されている事からひょっとしたらこの山は修験道によって切り開かれた山である可能性もありますね。
そして役行者像の奥には観音様も祀られていました。
やはりかつては山岳信仰の山として開かれていたのでしょうか?
最後に
いかがでしょうか?
今回は少し恐ろしいエピソードのある崇道神社を紹介しました。
桓武天皇が平安京に遷都した理由は実はこんな恐ろしい出来事によって行われた事は驚きです。
現在の崇道神社は氏神様として鎮座し、町の守り神として親しまれる存在ですが、千年以上前には怨霊を一刻も早く鎮めるために命がけで祈りを捧げていたに違いありません。
いつの時代でもやはり、恨みや憎しみ、生霊や怨念と言った人と人との軋轢は恐ろしいものである事を実感でき、そう考えるとこの崇道神社の創建が実に恐ろしい事も分かると思います。
平安京は明治になりようやく千年の都としての役目を終え、果たして怨霊はこれで鎮まったのかどうかは分かりませんが、京都で唯一崇道天皇を祀るこの神社はこれからもこの場で鎮座され続けるでしょう。
崇道神社は京都左京区の比叡山方面に位置するひっそりとしたお社です。
神社周辺は山に囲まれ、非常に清々しい気分を味わえるので、ゆっくり神社参拝したい方はぜひ立ち寄ってみて下さい。