素晴らしき日本の景色たち

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戸隠神社五社の歴史や信仰及び修験道場の戸隠山についてお伝えします

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戸隠山の登山を終えた後は戸隠神社を参拝しました。

毎度同じく登山後の参拝となり、しかも日帰りだった為に慌ただしい参拝でしたが、今回はそんな霊験あらたかな戸隠神社の五社それぞれの歴史や信仰について写真を交えながらお話したいと思います。

 戸隠神社とは?

戸隠神社の創建は定かではないですが孝元天皇五年とされ、二千年以上の歴史を誇る神社として戸隠山の麓に鎮守しています。

現在は戸隠神社と呼ばれ、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社の五社から成り立っていますが、明治以前までは戸隠山顕光寺と称され、奥院、中院、宝光院として開かれました。

また、平安時代には神仏習合の一大山岳霊場として多くの修験者が集い、戸隠三千坊と言われるほど、修験道の聖地として歴史を刻み、戸隠山の険しい岩峰の姿から、厳しい修行の場であった事が想像できます。

そして明治に入り、神仏分離により仏像や仏教的なものは全て取り除かれ、社僧は還俗して神官となり、更に名前も戸隠神社と改められ現在に至ります。

戸隠の由来

戸隠という名前は読んで字の如く戸を隠すという意味が込められていますが、由来には二つの説があり、記紀神話の中でも重要な物語の一つとして語られている天の岩戸説と戸隠山を開いた学問行者が九頭龍を閉じ込めた説が挙げられ、神道系と仏教系の二つの説が戸隠の由来となっています。

それぞれの説について詳しく説明したいと思います。

天の岩戸説

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Wikipediaより引用

記紀神話に語られている天の岩戸とは…

弟である須佐之男命の狼藉に恐れをなした天照大御神が天の岩戸に身を隠し、そのために高天原と葦原中国(天と地)は暗闇に閉ざされてしまい、

この出来事から、八百万の神々が天照大御神を救いだそうと作戦会議し、天の岩戸の前でお祭りを行う事になりました。そしてお祭り騒ぎに興味を持った天照大御神が岩戸を少し開き、様子を伺った隙に天手力雄命が岩戸の外へ引っ張り出し、高天原と葦原中国に再び光が戻ったというお話です。

細かいところは割愛しましたが、この神話には死と復活(生)の信仰を物語っています。

古代より稲作が中心だった日本人にとって太陽は掛け替えのない存在であり、四季が明確な気候である日本の風土は春から秋にかけて稲作や農作物を調達し、厳しい冬を乗り越え、また春には一年の豊作を祈る祭りを行ってきました。

つまり、冬を迎えれば作物等はことごとく死に向かい、春になればまた新たな命が芽生え復活するというサイクルを神話では天照大御神が身を隠し、再び姿を現す事で表現され、また、稲作をそれぞれの役割でお互いが協力し育てていく過程は、八百万の神々が互いに協力してそれぞれの役目を担って天照大御神を救いだす場面に重なると思います。

更に、一度災いや災害が起これば、互いに協力し合い和を何よりも大事にする日本人像がこの神話からも読み取れるのではないでしょうか。

戸隠の由来から話がそれましたが、この神話に登場する天手力雄命が天照大御神を引きずりだした際の岩戸を放り投げ、この地に落ちたことにより戸隠山となったそうです。

また、戸隠神社の五社の御祭神はこの天の岩戸伝説に関わる神々が祀られているので、同時に神話の神々を参拝する事の出来る神社になります。

九頭龍信仰説

神道系である天の岩戸説に対し、戸隠山の縁起である「戸隠山顕光寺流記」によると、学問行者が飯縄山で七日間修行した後に戸隠山の洞窟に行き、そこで九頭龍に出会いました。

学問行者の唱える法華経の力により改心した九頭龍は永遠にこの山を守護すると誓い洞窟に籠り、学問行者が岩で閉じ込めた事から戸隠と呼ぶようになったそうです。

ここで登場する九頭龍とは龍神のことで、龍は恐ろしい姿の反面、水を司る神であり、険しい山容から流れる水が人々に恵みをもたらすと信じられ、古来より戸隠山の麓に住む人々は九頭龍を地主神として信仰されていたと思われます。

そのために、縁起書には地主神である九頭龍が戸隠の由来とされ、神仏習合時代には九頭龍権現として信仰されるようになります。

余談ですが、九頭龍信仰は戸隠山から妙高山にかけての山の形が龍の体にたとえられ事からも考えられているそうで、これに似た話では秩父の両神山が挙げられます。

秩父の百名山である両神山も伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神が祀られている事からそのような名前になった事と、両神山のギザギザの山容を竜に見立てたことから竜頭山とも呼ばれ、山の麓と山の尾根には龍頭神社が建てられ、呼び方も龍の頭で“りょうかみ”と呼ばれていた事から来ていると考えられます。

このように、戸隠と両神のどちらも元々は地主神から由来されている事が分かると思います。

しかし、明治以降は神仏分離により今では、神道系の伝承が一般的となっています。

修験道としての戸隠山

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戸隠山のギザギザした岩峰から成る山容は見る人を圧倒させ、その姿から龍が住まう山と信じられ、かつては戸隠山を登る事は考えられなかったと思われます。

しかし、神仏習合により修験道が発足し次々に山が開かれ、戸隠も信濃の戸隠と呼ばれるほど霊験あらたかな一大山岳霊場として発展し、多くの修験者たちで賑わっていたそうです。

現在は修験道も廃止され、かつて命がけで行っていた修行場も今では誰でも登れるようになりました。

その様子を伝える事が出来るようになったので、写真を交えながら見ていきましょう。

三十三霊窟

戸隠山には三十三霊窟という、修験者の行場が三十三箇所あるそうですが、実際は更に多くの霊窟が存在しているらしく、今現在確認されていない霊窟もあるそうです。

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登山口からしばらくすると険しい岩場に到着します。

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岩壁が削られたようにみえるこの辺りは石仏などが安置されていたそうです。

現在は数体の石仏が安置されているだけです。

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途中、このような霊窟もあり、見上げると祠のようなものが見えます。

かつては石仏などが安置されていたと思われます。

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このように、登山道沿いにはいくつかの霊窟が存在しますが、これらはほんの一部であり、登山道以外のとんでもない崖にも霊窟は存在しているそうです。

蟻の塔渡り

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 蟻の塔渡りとは四つん這いのように、はって渡らなければならないほど狭い道で、渡るその姿がまるで蟻が歩いているように見える事からそのような名前になったそうです。

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滑落事故や死亡事故も多発している戸隠山の核心部であり、かつては修験者のみ渡っていました。

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ありのままの自然と向き合い、少しでも自然に近づくためにこのような荒行を行い、新しい自分に生まれ変わる事を願いながらここを渡っていたと想像できます。

蟻の塔渡りの様子や戸隠山の登山道の様子はこちらの記事をどうぞ↓

www.narisuba.com

裏山

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戸隠山、九頭龍山の表山に対して、高妻山や乙妻山の奥に位置する山は裏山と呼ばれています。

裏山の麓である戸隠牧場から高妻山、乙妻山にかけて十三仏が祀られ、こちらも信仰登山が行われていたそうです。

戸隠神社の五社

戸隠神社は大きく分けて奥社、宝光社、中社に分かれており、元は寺院として奥院、宝光院、中院の名で呼ばれていました。

これに加えて奥社に隣接する九頭龍社、火之御子社を合わせて五社から成り立っています。

各社の様子や信仰についてお伝えします。

奥社、九頭龍社

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国道36号線沿いに入口に奥社の大鳥居が建てられています。

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随神門まではひたすら一直線の参道が続きます。

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随神門に到着しました。

この立派な茅葺屋根の随神門は宝永七年(1710)に建てられたそうです。

随神門という名前になっていますが、神仏習合時代には仁王門として構えられ、門の左右には邪悪なものを防ぐために仁王像が安置されていました。

現在は随神像が祀られ、名を天石門別神(あめのいはとわけのかみ)といい、亦の名は櫛石窓神(くしいはまとのかみ)、豊石窓神(とよいはまとのかみ)と呼ばれており、門の左右にそれぞれ祀られています。

この天石門別神は天孫降臨の際、天の岩戸で活躍した五伴緒の神々共に常世三神の一柱として天下った御門の神様です。

ちなみに、常世三神の残りは、奥社の天手力雄命と中社の思兼命で、いずれも戸隠神社に祀られた神様であります。

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随神門を越えると、巨大な杉並木が待ち構えています。

慶長十七年(1612)に植樹され、これぞ神域という雰囲気を醸し出し、神の存在を象徴するかのように立ち並んでいます。

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随神門と奥社の間にトイレがあります。

トイレは奥社にはありませんので注意が必要です。

登山の人もここで済ませるようにしましょう。

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随神門から約20分で奥社に到着し、大鳥居からだと約40分かかります。

秋だとご覧の通り、境内は紅葉で色づき、奥に聳える戸隠山とのコントラストが絶妙です。

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奥社です。

さほど大きい社殿ではなく、すぐ後ろに岩壁が迫っている事が分かると思います。

よく見ると洞窟にのめり込むように建てられ、先ほど説明した三十三霊窟の内、第一霊窟がこの奥社になります。

御祭神は岩戸を開いた天手力雄命で、名前の通り力の強い男を意味し、開運やスポーツの必勝の御利益があるそうです。

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絵馬殿の隣には戸隠神社の地主神として、奥社よりも歴史の長い九頭龍大神が祀られ、

神仏習合時代には九頭龍権現として信仰されていました。

戸隠寺の縁起でも出て来たように、学問行者が九頭龍を隠したとされる窟であり、戸隠の歴史はここから始まったと言っても過言ではありません。

中社

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続いて中社です。

奥社に一番近いのがここ中社で、鳥居周辺は宿坊やお土産屋で大変賑わいが見られます。

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鳥居をくぐり階段を上がったすぐ右に大きな三本杉が立っています。

カメラに収まらない程巨大な杉は樹齢約800年と言われ、三本に分かれて聳えているからこの様な名前になったそうです。

また、三本の内一本だけ先端が三本に分かれている杉があるそうなので、探してみてはいかがでしょうか。

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三本杉の手前右奥には摂末社があり、石仏が安置され社も建てられています。

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階段を登り終え、すぐ左にはこれまた巨大な御神木が聳えています。

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社殿の右斜め奥にはさざれ滝という名の滝があります。

さざれとはさざれ石の事でしょうか?

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正面には立派な拝殿が建てられています。

中院は奥院、宝光院の次に開かれた寺院で奥社と宝光社のちょうど中心に位置し、名前の由来も中心にあるからそのように付けられたそうです。

寒さの厳しい冬は別当や衆徒は中院周辺で生活が営まれ、奥院と宝光院の中間に位置するの為、運営においても都合のよい場所だったそうで、現在も戸隠神社の中心はここ中社となっています。

更に、中社周辺には多くの宿坊や温泉宿などが点在し、当時の隆盛を物語っているように思えます。

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御祭神は天八意思兼命

天八意思兼命は天の岩戸で岩戸に引き籠った天照大御神を救いだす作戦を考えた神様で、多くの神々の得意分野を見極め、救出にあたりそれぞれの役割や準備を手掛け、緻密な作戦の末、見事に天照大御神の救出に成功させた凄腕プロデューサー的な神様です。

また、天八意思兼命は葦原中国平定の際、天照大御神が地上の主である大国主命を説得させるように任され、地上に使者を使わし、二度の失敗をしたものの、三度目にようやく成功させました。

それはつまり、失敗を繰り返したけれど自身(天照大御神)を救いだしてくれた恩もあり、絶大な信頼があったからこそ天八意思兼命に任せたのだと思われます。

このように、天八意思兼命は困難や難事を解決させるスペシャリストであり、“思兼”は様々な人の思いや考えを兼ね備えた事を意味するので、知恵を司る神とされ、更に学問の神としての神徳も備えているので、賢くなりたい人や試験を控えている人は参拝されてみてはいかがでしょうか。

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青龍殿

宝物館と参集館(参拝者控え)を兼ね備え、宝物館には重要文化財や神仏習合時代の品々が展示されています。

拝観料は大人300円、小学生200円

開館時間は夏季:午前9時~午後4時30分

     冬季:午前9時~午後4時

宝光社

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奥社から一番離れた所に宝光社は建てられています。

宝光社も中社同様に周辺には多くの旅館や宿坊が建てられ、神仏習合時代には奥院が天台宗中心に対して、宝光院は真言宗中心に栄えたそうです。

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鳥居をくぐると鬱蒼とした杉が階段の両方に立ち並び、いかにも鎮守の杜という雰囲気が漂います。

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振り返ると、下の鳥居が遥か遠くに見えます。

階段は急で、193段あるそうなので、焦らずゆっくり登りましょう。

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登りきった正面には迫力のある社殿が姿を現します。

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戸隠神社の中で最も古い社殿で、創建は文久六年(1861)

拝殿の周りには龍や鳳凰の彫刻が見事で、これは北村喜代松の作品だと言われています。

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縁起によると、康平元年(1058)、奥院から離れたこの地に12~13歳くらいの少女に戸隠三所権現の地蔵権現が神がかり、「この地に我(地蔵権現)を安置するお堂を建てよ」と言った事から宝光院は開かれました。

地蔵さまは本来、子供の守り神とされ、いつしか民衆を救う存在となり、特に山岳信仰においては女人禁制が厳しく、戸隠も女人が禁じられていた為、この地に地蔵さまを祀り、宝光院は唯一女性の参拝が許されていたそうです。

現在の御祭神は中社の天八意思兼命の御子である天表春命が祀られ、学問の他、家内安全や技芸、安産など子供や女性に関わる御利益があるとされているのは、過去にこの地に地蔵さまが祀られ、その御利益が引き継がれたと考えられます。

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社殿の右側には神輿庫がありました。

戸隠の神輿は火之御子社を除く、四社で神輿が作られたそうですが、現在は宝光社のみが保持し、新旧の二其が保管されています。

神輿は宝光社から中社まで担がれるそうです。

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神輿庫の奥には神道(かんみち)という、中社へ続く道があります。

戸隠の豊かな自然と歴史を満喫しながらゆっくり歩きたい方にはおすすめです。

火之御子社

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火之御子社は中社と宝光社の中間に位置し、入口が小さい為に見逃してしまうので注意が必要です。

善光寺道名所図会に描かれた戸隠を見てみると、火之御子社は日の御子社と書かれており、日とは天照大御神を示しています。

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数十段の階段を登り終えた正面には社殿が建てられています。

火之御子社には授与所や社務所が無く、御朱印は宝光社と中社で受けられるそうです。

また、火之御子社のお守りは中社で頒布されています。

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先ほど説明したように、日の御子とは天照大御神の子という事で、主祭神の天鈿女命の他に天忍穂耳命、拷幡千々姫命、高皇産霊命が祀られ、天忍穂耳命がちょうど天照大御神の御子となり、当初はこちらの神様が主祭神ではないかと推測できます。

しかし現在、戸隠で祀られている神々は天の岩戸ゆかりの神様が祀られているので、ここには天鈿女命が祀られています。

天鈿女命は天の岩戸の物語では、天照大御神を救いだす為に激しく踊ったと語られていますが、日本書紀においては火を焚きながら神がかり踊ったと伝えられているので、御神徳の火防はそこから来ていると考えられます。

つまり、日を火に、主祭神を天鈿女命に変え、天の岩屋戸ゆかりのお社として社名も火之御子社にされたそうです。

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また、天鈿女命と言えば芸能の神として有名ですが、天の岩戸では豊乳を出し、陰部までさらけ出して踊り、これは神がかりとして表現され、超自然的な存在と交信する能力者(シャーマン)としての性質を表しています。

つまり、天の岩戸における天鈿女命は死んだ神を呼び覚ますほどの力を有する存在として語られ、もはやこの物語の主人公的な位置に着いた神様と考える事もできます。

このように、死んだ神の前でトランス状態になりながら踊る行為は、神前で舞や神楽を奉納する起源とされ、これはそのまま芸能の神として発展し、今では芸能上達の御利益の神として崇敬され、更に天照大御神の復活に貢献した事から、開運の御利益にも納得がいくと思います。

また、ここ火之御子社は他の四社と違い、代々神職が管理されたお社であり、それはつまり、神仏習合の影響も受けず純粋な神のままこの地に祀られていたことになります。

戸隠神社(五社)のアクセス、駐車場

 

 最寄りのインターは信濃町ICで、インターから国道36号を経由に約30分で戸隠に到着します。

電車の場合は長野駅からバスを利用。

詳しくはアルピコ交通株式会社をご覧下さい。

駐車場

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左の写真は奥社の駐車場で、参道入り口の鳥居横と鳥居正面に有料駐車場が有ります。

右は中社付近の案内看板で、西鳥居前に数カ所とすぐ奥に100台分の駐車場が有ります。

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左の写真は火之御子社の駐車場で、道路沿いに3台ほどの駐車スペース有り。

右の写真は宝光社の駐車場で、20台ほどの駐車場が有ります。

詳しくは戸隠神社ホームページをご覧下さい。

最後に

戸隠神社は創建二千年に及ぶ歴史を刻み、原始山岳信仰から神仏習合、神仏分離の道を歩みながらも、戸隠山及び周辺の素晴らしい自然との調和により信仰されてきた事を肌で感じる事ができます。

また、戸隠神社に祀られている神々は記紀神話における天の岩屋戸や天孫降臨に登場するとても重要な神様であり、戸隠神社を参拝する事は神話の世界の神々に触れ合う事になります。

今回は戸隠神社の五社を紹介しましたが、まだまだ紹介しきれない場所もたくさん有り古代から受け継がれてきたものや神仏分離により失われたもの、新たな歴史を歩み始めたものなどが集う、戸隠神社周辺の戸隠古道をゆっくり歩いてみるのもおすすめです。

ぜひ、山奥の自然豊かで霊験あらたかな戸隠神社へ足を運び、神話の世界の神々に触れ合ってみてはいかがでしょうか。