御嶽山を黒沢口から最高峰の剣ヶ峰まで登り、下山後の温泉を楽しんだ後は御嶽神社を参拝しました。
御嶽神社は特に信仰登山が盛んであった黒沢口と王滝口の二ヶ所に鎮座され、麓から登山口の間には無数の霊神碑が祀られ、いかに御嶽山が信仰の山である事を感じさせる光景を目の当たりにする事ができます。
今回もいつもの通り、登山からの観光という流れで、黒沢口と王滝口の御嶽神社を参拝し、更に御嶽信仰ゆかりの滝である清滝と新滝を見学しました。そして翌日には景勝地の他に、御嶽教の神社である御嶽山木曽本宮も参拝したので、合わせて紹介したいと思います。
御嶽山とは
御嶽山は標高3000mを越え、独立峰としては富士山に次ぐ高さを誇り、見え方によっては違いますが巨大な裾野を持つ台形の形をした山です。
5年前に噴火した事から分かるように、御嶽山は火山として分類されていますが、実は噴火は1万年ほど起こっておらず、有史においては火を吹く事のない穏やかな山と認識されていました。なので、実際に噴火する事の見られない山だったので、火山に見られる畏敬や畏怖の信仰とは別の意味で崇敬されていた山となります。
名前の由来ですが、御嶽は王嶽や王御嶽、王之嶽と元々呼ばれ、蔵王権現を祀る山から王の字が使われたと言われています。
全国には御嶽や御岳という名の山が多数存在していますが、必ずしも木曽の御嶽を指すとは限らず、山を敬う意味で御山と表記され、山と同義語の岳を用いる事で御岳となり、読み方もオンタケの他オタケやミタケと呼ばれ、単純に神様がいらっしゃる山という意味でこのような名前になったとされています。
また、その巨大な山姿から多くの人々を魅了し、江戸時代には富士山と並ぶ程の信仰登山が盛んだった為に、御嶽山は日本七霊山に指定され、近代に於いては日本百名山に選ばれ、信仰登山に限らず多くの方に登られている山でもあります。
御嶽山の信仰
御嶽山は富士山と同様に独立峰で、遠くからでもその雄姿を眺める事の出来るほどの大きさを誇る山であり、古くから遥拝として崇められてきました。
その証拠に御嶽山の周囲には様々な遥拝所があり、峠という名の場所から遥かに聳える御嶽山を拝し、御嶽山は五穀豊穣や家の安寧を祈る素朴な信仰の対象とされてきたそうです。
また、御嶽山は蔵王権現が祀られていたことから修験の山として栄えた山でもあり、かつては厳しい精進潔斎を行わなければ登拝をする事は出来ず、限られた行者のみ御嶽山を登られてきました。
しかし、江戸時代中期に尾張出身の覚明行者により、軽精進で登拝を可能にし、それ以降多くの民衆を教化し、だれでも自由に御嶽山を登れるようになりました。
そして黒沢口を開いた覚明行者に次ぎ、王滝口からは普寛行者により同じく軽精進で登拝を可能となり、その後は講社が次々に誕生し、日本一信仰登山の多い山として知られるようになりました。
御嶽信仰独自の霊神碑とは
御嶽山の登山口へ向かう途中、道路沿いには無数の石碑が立てられているのが分かると思います。これらの石碑は霊神碑と言い、その数は二万を越え、道路を走っているとその膨大な数の霊神碑に驚きを隠せません。
先ほど記述した通り、御嶽山は元々蔵王権現が祀られていた事から、修験の山として発展し、厳しい精進潔斎をしなければ登る事の出来ない山でしたが、覚明と普寛の二人の行者により軽精進でも登れる事を可能にし、多くの信者たちが御嶽山を登るようになりました。
そして、普寛はさらに信者を増やそうと思い、人に神を降ろす「御座」という儀式を導入しました。
人は死後、たとえ姿形が無くなっても魂は山に留まり、神となって今を生きる人を見守るという典型的な山上他界や人神信仰により、御嶽山もこのような考えを取り入れ、死ねば魂は御嶽山に帰るという事から、亡くなられた行者の魂を祀る為に霊神碑は作られました。
そしてこの霊神碑の前で「御座」という儀式を行うことで、いつでも亡くなられた方に会う事ができる霊神信仰が多くの方に魅了される事によって御嶽山の登拝が爆発的に人気になったそうです。
この霊神碑は道路沿いに多数祀られ、よく見ると中心に御嶽大神、その横に覚明や普寛その他の行者の名前が書かれた大きな霊神碑が祀られ、その手前に無数の信者の霊神碑が祀られています。
こぢんまりとした霊神碑群やまるで神社のように鳥居が立てられている霊神碑群など様々な形式があり、恐らく講や教会ごとに霊神碑を祀られていると思われます。
余談ですが富士山の麓にも石碑群があり、これらは碑塔と言われ、霊神碑のように魂を祀るのではなく、富士登拝や大願成就を称える顕彰や講祖や先達の追善供養のために立てられた石碑であり、場所も人穴という富士講の聖地のみに立てられています。
富士山は御嶽山と違い、有史において噴火が著しく、火を吹く山と認識されていた為に、死後魂は富士山に戻るという信仰は生まれなかったのではないかと思います。
富士講遺跡について知りたい方はこちらをどうぞ↓
黒沢口の御嶽神社
黒沢口は元々神職である武居家が管理し、御嶽山に登る際は厳しい行やしきたりを守らなければならず、限られた人しか登る事が出来ない山でしたが、尾張出身の覚明は武居家と対立し、最初は却下されるものの、次第に認められ軽精進でだれでも登れる山として黒沢口は開かれました。
その後奥社に至るまで、覚明率いる多くの信者が今でも安心して登れる登山道を整備されたそうです。
その間にはいくつかお社があるので、紹介したいと思います。
里宮
黒沢口の里宮は二合目付近に鎮座しています。
創祀は774年、信濃国司石川朝臣望足が大己貴命、少彦名命の二神を御嶽山に祀った事が始まりと言われていますが、御嶽山には本来蔵王権現が祀られていたと伝えられています。
しかし、明治以降の神仏分離により祭神も国常立命、大己貴命、少彦名命に改め、三神を「御嶽大神」と呼び、黒沢口には大己貴命、少彦名命が祀られています。
鳥居を潜ると賽銭箱が置かれています。
階段が多く急なので、登れない方にもお参りできるようになっています。
階段を登りきると社殿が現れます。
社殿はシンプルで、神社というよりお堂のような造りをしていました。
また、境内には社務所も無く、お参りをするだけのお社という感じです。
社殿右奥には御嶽山に続く古道があります。
かつてはこの里宮を参拝した後、ここから多くの行者たちが御嶽山へ登られたのではないかと思われます。
ちなみに社務所は道路の反対側にあります。
社務所の正面には茶屋があり、中にはお土産も販売されているので、参拝後に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
若宮
里宮から目と鼻の先には御嶽神社若宮が鎮座しています。
創建は不明で、1358年に木曽家親(家信)によって再建されたと伝えられ、家信が奉納した鰐口が現存しているそうです。
鳥居を潜ると趣のある木々に囲まれた神域である事を実感します。
このような自然と調和した神社が好きです。
本殿がこぢんまりとしたお社に対して、拝殿はかなり大きく何人も入る事の出来る空間でした。
また、拝殿の手前には前拝殿というお社もあり、こちらは吹き抜けで中に入る事が出来ました。
前拝殿の前には土俵があり、この神社でも奉納相撲が行われているそうですね。
覚明社
さて、ここからは登山道内にあるお社等を見ていきましょう。
黒沢口の7合目には覚明社というお社があり、中には覚明行者の御像が安置されています。
奥社へ向かう際の安全と、この地に訪れた人々の諸願成就のために建てられたそうです。
覚明社の横には覚明が実際に行を行った跡として、このように注連縄が掛けられています。
ここから先は険しい登山道となるので、ここで精進潔斎を行っていたのでしょう。
女人堂
8合目には女人堂という山小屋があります。
女人堂とは女性だけの為に建てられた堂舎で、修験道が発展するにつれ、女性は罪穢れの存在という考えが定着しました。
そのために女性の登山を禁止したり、女人堂までしか登る事が出来ないように規制されたそうです。
現在は山小屋として機能していますが、かつては堂舎として女性たちがここで修行していたと思われます。
女人堂の周辺には夥しい数の霊神碑が祀られ、この霊神碑の前で神降ろしの儀である御座が行われているそうです。
また、行者の中には女性も見られ、神がかりする女性も多いそうで、これらの女性は伊田道者と呼ばれ、恐山のイタコに通じると言われています。
奥社
御嶽山の最高峰である剣ヶ峰には黒沢口の奥社が鎮座されています。
元々蔵王権現が祀られていたそうですが、現在は黒沢口には大己貴命、少彦名命が祀られています。
噴火から5年が経ちましたが、奥社はご覧のように綺麗になっていました。
今年(令和元年)は7月1日から10月16日まで黒沢山頂に立つ事ができ、今回ここで参拝できたのも貴重な時間となりました。
奥社へ向かう階段には噴火の恐ろしさを物語る灯篭がまだ残されています。
噴火で亡くなられた方の為に、奥社の階段の下には慰霊碑が建てられています。
この日は5年前と同じくらい素晴らしい青空だったので、正直心が痛む登山となりました。なので、ここでは手を合わせ暫くの間黙祷しました。
奥社は綺麗になったものの、山荘があった場所はまだこのような状況でした。
地面を見ると灰がまだ積もっており、甚大な被害を受けた事が分かると思います。
一刻も早く復興される事を祈るばかりでした。
黒沢口の奥社は最高峰に鎮座されているので、景色も素晴らしいです。
最高峰から眺める景色を見たい方は御嶽山の登山編をご覧ください
王滝口の御嶽神社
覚明が黒沢口を開いた後は、秩父出身である普寛によって王滝口を開きました。
普寛は江戸を中心に御嶽信仰を布教した結果、多くの講社を持つようになり、江戸の講中を連れて登拝などを行っていました。
やがて普寛も覚明に続き、誰でも自由に登れるように登山道を開かれたそうです。
それでは、里宮から順に紹介します。
里宮
道路沿いには立派な鳥居が建てられています。
御嶽神社も金色で塗られていますね。
階段を登ると再び階段が現れます。
ここから長い階段になりますが、黒沢口よりも鬱蒼とした神社という感じです。
入ってすぐに大黒天が祀られています。
大黒天は御嶽神社の御祭神である大己貴命を指し、万物造化育成の大神徳として信仰されているそうです。
里宮大黒天の横には霊神社が建てられています。
本殿を拝むための拝殿となっていて、本殿まで上がれない人はここで参拝するようになっています。
拝殿の天上には霊峰御嶽山が描かれ、まさに山岳信仰の山である事を感じます。
さて、ここから368段の階段を登り、御嶽大神が祀られている本殿を参拝したいと思います。
途中には本殿まであと何段という案内のプレートが階段に付けられています。
しかも、山に例えると今何合目ですという風に表していますね。
頂上付近には龍の口不動尊が安置されています。
現在は神社でありますが、依然としてこのような神仏習合の面影を残されています。
恐らく現在も行者たちが登拝前の精進潔斎の為にこの神社を訪れ、御嶽大神に祈りを捧げているのではないかと想像できます。
階段を登りきると目の前には大きな岩壁が聳えています。
その岩壁からは少量ではありますが、水が流れていました。
御嶽山の恵みのお水をいただきましょう。
この大きな岩壁に寄り添うような形で本殿が建てられています。
まさに、大自然と一体となり自然を教典とする山岳信仰の祈りの場である事を肌で感じます。
本殿の横には摂末社が建てられています。
本殿と合わせて参拝しましょう。
清滝と新滝
御嶽山は滝が多い事でも有名です。特に黒沢口と王滝口は滝が多く修験道に於いては、これから山という神域に入る前の滝行・水垢離として利用されています。
王滝口の3合目と4合目の間には二つの有名な滝があり、最初に清滝を紹介します。
道路沿いに清滝入口の看板がありますが、ここからは入れず、すぐ隣にある坂を上がっていきます。
ちなみに、道路沿いには車を停めるスペースがあります。
坂を上がりきると目の前に清滝が現れます。
岩壁一面に幅広く水が流れ込む姿は迫力のある光景ですが、水量は少なめで岩壁を撫でるように降り注ぎ、清らかに感じます。
そのため、清滝と名付けられたのかは分かりませんが、橋から眺めるその姿は圧巻で、水しぶきが気持ちいいです。
橋を渡ると弁財天と不動明王が祀られています。
滝の方を覗くと滝へ続く道があり、この清滝は御嶽行者の滝行の場である事が分かります。
ここで横一列に並んで、入山前に身も心も清らかにする為に滝に打たれているのであろう、その姿を想像できます。
お次は新滝です。
こちらも道路沿いに駐車スペースが有るのでそちらに停め、入口の看板に従い進んでいきます。
こちらはほとんど登山道のようになっていますが、入口から数分で滝に到着出来ます。
新滝がこちら。
先ほどの清滝とは違い、幅も狭く一気に流れている様子が分かると思います。
新滝と同様にギリギリまで近づける滝になっていて、滝壺も間近に見る事が出来ます。
しかし、いずれにしても観光では直に触る事は難しいと思うので、触れないようにしましょう。
滝の後ろには岩壁とほぼ一体になるように祠が建てられています。
不動明王や摩利支天などが祀られ、やはりこの滝も行者たちの修行の場である事が伺えます。
奥には洞窟のようなものがあり、これは胎内くぐり?と思いましたが、見ただけでは分かりませんでした。
滝を見上げるとこんな感じです。
滝をこんな間近に見られるのは滅多にないと思うので、清滝と共に滝巡りもおすすめです。
十二大権現
王滝口を更に山頂方面へ走らせ、3合目と4合目の間には十二大権現が祀られています。
現在の御祭神は木花開耶姫命とされ、子授けや安産の御利益を求めて参拝されているそうです。
ここで、十二という言葉がありますが、これは山の神を表す数字であります。
東北地方では山の神は女神とされ、その女神は十二人の子供を持っていると考えられたそうです。
このため、祭日は十二にちなんで十二月十二日に行われ、十二個のお餅をお供えする風習があり、神様の名前も十二様呼び、崇敬されています。
これらの伝承から、ここの十二大権現の十二も恐らく山の神である女神と考えられ、現在は神仏分離により、大山津見神という山の神の娘である木花開耶姫命が御祭神となり、十二様の子沢山の御利益がそのまま引き継がれ、子授けや安産を願うお社になっていると推測できます。
階段を登って左に十二大権現のお社があります。
吹き抜けのこぢんまりとしたお社で、中を覗くと御神像のようなものが祀られていました。
お社の横には大量のさるぼこが吊るされています。
子授けを願う方はここにあるさるぼこを一つ持ち帰り、子宝が授かったらさるぼこを十二ヶ作り、ここに奉納するそうです。
一方的に願うだけでなく無事に成就したら、きちんとお礼参りをしましょうという意味が込められていますね。
八海山神社
5合目には八海山神社が鎮座しています。
八海山とは登山好きの方にはよくご存知かと思いますが、新潟県に聳える二百名山の八海山を指しています。
この八海山と御嶽山は密接な関係があり、霊峰八海山を開いたのは山麓に住む泰賢という行者ですが、実は御嶽行者の普寛と共に登山道を開いており、ちょうど泰賢は普寛の弟子という事から八海山は御嶽山の弟山とされています。
その為に、御嶽山のもこのように八海山神社が建てられ、王滝口のみならず黒沢口にも八海山神社が鎮座されています。
この神社の御神水は目に病を持つ者を直した事から、その後多くの方がこの御神水を求める程話題となったそうです。
元々八海山には八海大明神が祀られ、その本地仏が薬師如来という事であり、薬師如来はあらゆる病や悩みを癒す仏としての存在の為に、このような由来が伝えられたと思われます。
鳥居の横に「め」と書かれたモニュメントがありましたが、目の病を癒す御神水の事を表していたそうですね。
その御神水がこちら
御神水の場所には注連縄が張られています。
ホースから静かに流れていました。
空き容器があれば有難くいただきたいですね。
八海山大神と書かれた扁額の下には御嶽山の印が取り付けられています。
八海山と御嶽山の密接な関係が伺えます。
社殿の横には愛染明王が安置されています。
神社なのに堂々と仏像が祀られている事から、神仏習合の名残を感じます。
その他、摩利支天像や八大龍王像も安置されています。
御嶽山木曽本宮
道の駅木曽福島でのんびり休憩し、ぼけーっと木曽川を眺めていると、目線の先に何やらご立派な神社がある事に気づき、あれは何だ?と興味が湧いたので、急きょ訪れる事にしました。
現場に到着し名前を確認すると、御嶽山木曽本宮と書かれていました。
調べたところ、どうやらここは御嶽教の神社のようです。
社殿の正面にやってきました。
鳥居には御嶽教の印が三ヶ所取り付けられ、一般の神社とは違う雰囲気が漂っています。
御嶽教は明治の宗教政策により発生した教派神道の一派であります。
日本は明治初期において西欧列強であるキリスト教の浸透に伴い、今一度自分たちの国の信仰や宗教は何かと考えさせる時期でもありました。
そのために国民教化政策として明治政府は神儒仏合同で国民への教化活動が行われ、この時代になって神道も初めて教えを広めるという立場になりました。
その後紆余曲折あり詳しい事は省略しますが、神道内でも教義が絡むと軋轢が起こり、最終的には神職は国家の為だけに祭祀を行い、同時に布教活動は禁止となりました。
これにより布教を専念していた神道家たちは自ら教団を設立させ、独自の教えを広めていく事となり、その後十三の教団が公認され、御嶽教もその一つになりました。
つまり、ここの神社は黒沢口や王滝口の御嶽神社とは別の宗教団体という事になります。
ただ、教団は違うけれど、御嶽山という神の山を崇敬している事は同じです。
なので、私はこちらの神社でも下山感謝として参拝させていただきました。
話が長くなりましたが、再びレポートを
社殿の正面からは先ほど私がのんびりとしていた、道の駅木曽福島が見えますね。
清明瀧
緩めの滝ですが、ここでも潔斎が行われているのでしょうね。
社殿の裏にはこんなスポットもあります。
その名も、天地の磐座
由緒によると天の岩屋戸の一部がこの地に鎮座したと書かれています。
つまり、巨岩の破片がこの地に落っこちたという事ですか!?
こんな巨岩が落っこちてきたら大変な騒ぎになるんじゃないかと思うのですが…
社殿向かって右には大教殿
入口には真言の書かれた紙が張られていました。
そのお隣には大霊殿
ここには御嶽教の信者たちの御霊が祀られており、更に5年前の噴火で犠牲になられた方々も同時に祀られていました。
最後に
御嶽神社は黒沢口と王滝口の二つの登山口に鎮守し、登山口以外にも数多くの神様が祀られており、道路沿いには夥しい数の霊神碑が立てられ、御嶽の独特な信仰を間近に見られ、まさに山岳修験の山である事を実感します。
また、神社以外にも滝が見どころで、物見遊山的な滝と同時に行場としての滝の姿を見る事も出来ます。
個人的には登山をしながら各お社を参拝する登拝をおすすめしますが、麓付近にも多くの神社などが建てられているので、ドライブがてら様々な神社を参拝する事も可能です。
ぜひ、参拝されてみてはいかがでしょうか。