国道135号を熱海、伊東市方面へ南下し、下田市街に入る手前には真っ白な砂浜が連なり、運転中にもかかわらずその白さに目を奪われる程美しい砂浜は見ての通り”白浜”と呼ばれています。
天気が良い日に訪れると、青い空エメラルドグリーンの海、そして真っ白な砂浜の三拍子揃った素晴らしい光景が広がり、夏は海水浴場として多くの方が訪れる場所でもあります。
さて、そんな美しい白浜に伊豆最古の神社がある事をご存知でしょうか?
その神社の名は伊古奈比咩命神社という名前の神社で、通称白濱神社とも呼ばれています。
この日の旅は下田公園のあじさいを楽しむ目的で伊豆を訪れ、せっかく天気もよかったので海を眺めたいと思い、下田に差し掛かった途中にある白濱神社も立ち寄り参拝しました。
見どころである白浜海岸並びに白浜とは異なる雰囲気を醸し出す境内をじっくり堪能したので、今回は伊古奈比咩命神社の境内と火達祭が行われる白浜海岸の様子や史跡に触れてみたいと思います。
伊古奈比咩命神社の由緒、御祭神は?
伊古奈比咩命神社(白濱神社)の御祭神の三島大明神様(別名事代主神)は、その昔(今から二千四百年以上昔のことです。)南方より海を渡ってこの伊豆にやって来ました。白浜に着いた三島明神様は富士山に登り、富士の神様や高天原の神々に会って伊豆の地を譲っていただき、この白浜に宮を造りました。次に、南伊豆下賀茂の伊古奈比咩命様を御后様に迎えました。
さらに伊豆の沖合に島を造る許しを受けた三島大明神様は、お供の見目、若宮、剣の御子の神様と伊豆の竜神、海神、雷神などの助け受けて、島造り(島焼)を始めました。
最初に、一日一晩で小さな島をつくりました。初めの島なので初島と名づけました。次に、神々が集まって相談する島、神集島(現在の神津島)、次の大きな島の大島、次に海の塩を盛って白くつくった新島、次に見目、若宮、剣の御子の家をつくる島、三宅島、次に三島大明神の蔵を置くための御蔵島、次に沖の方に沖の島、次に小さな小島、次に天狗の鼻のような王鼻島、最後に十番目の島、十島(現在の利島)をつくりました。七日で十の島をつくりあげた三島大明神様は、島々に后神をおき、御子神様をつくれれました。
この后神様や御子神達は、現在でも伊豆の各島々に式内社として祭られています。三島大明神様は、島々の神々の融和を図るため三宅島に宮をつくり、しばらくの間三宅島で過ごしました。その後、再び白浜に帰りこの白浜の地に大きな社をつくり御鎮座なされたので御座います。
今から千年以上前の当社の正式名称は「三島神社、伊古奈比咩命神社」となっていましたが、その後三島大明神と見目、若宮、剣の御子が、現在の三島市三嶋大社へ御遷座され、白浜に御分霊を残された為、正式名称は「伊古奈比咩命神社」となりました。通称は「白濱神社」と呼ばれています。
引用元:伊古奈比咩命神社由緒書
由緒によると、現在の主祭神は神社名となっている伊古奈比咩命となっていますが、元々の御祭神は三島大明神で、三島大明神は大国主命の長男である事代主命という事から出雲系の神である事も分かります。
この事代主命は古事記の国譲りの物語に登場し、天つ神の襲来の際に、すんなりと国を譲ると一言答えただけで、それ以降は時折登場するだけです。
そもそもなぜこの伊豆に事代主命という出雲の神が祀られているのか、疑問に思う所だと思いますが、恐らく出雲の神である大国主命が火山の神の性質を帯びている事からだと思われます。
出雲地方は現在と違い火山活動が盛んな地域であり、縄文時代には三瓶山や伯耆大山を始め、あらゆる火山の噴火が確認されています。
時の縄文人はこれらの荒ぶる火山に鎮火の祈りを日々行っていたと思われます。ではなぜ縄文人はわざわざ危険な火山の近くで暮らしていたと言うと、やはり火山によってもたらされる黒曜石などの鉱物を入手するために火山地帯に暮らしていました。
黒曜石はガラス製の石で、矢じりやナイフなど、縄文人にとって生活に欠かせない存在であり、火山は危険と同時に恩恵をもたらす存在と認識され、縄文人は火山そのものを神と崇められていたそうです。
つまり、出雲地方はかつては火山が活発な危険地帯であり、そこの代表する神様が大国主命という事は、紛れもなく大国主命は火山の神という事になります。
ここでは詳しく話しませんが、大国主命は温泉の神としても知られ、更に大国主命の別名には大穴牟遅神、大穴持命などがあり、大穴とは火口を表しているという説もある事からやはり火山の神の性質を帯びた神とも言えます。
祟る神、縁結びの神として有名な大国主命ですが、元を辿れば火山神という意外な神である事が分かります。
その大国主命の息子には事代主神、建御名方神がいて、国譲りの場面では共に出雲を去った神であり、建御名方神は諏訪へ事代主神は由緒の通り伊豆へ向かい、諏訪も伊豆も火山地帯であり、更に黒曜石の産地でもある事から、やはり火山神としての性質を兼ね備えた神ですね。
また、この神社の由緒を読むと最初に事代主は南から渡り歩いて来たと書かれ、まるで国譲りで出雲を去った後の物語のように語られ、更に読み進めると事代主はこの地で現在の伊豆七島をつくったと書かれ、伊豆七島は全て火山島である事から尚更火山の神としてこの地に祀られた感があります。
また、この三島大明神ですが、白浜に宮を建てたあと、現在の主祭神である伊古奈比咩命を妻として迎えたと書かれ、この伊古奈比咩命は「伊古奈比咩命神社略縁起」によると、磐長姫と木花開耶姫の母神と書かれ、この二柱の神は山の神である大山祇神の娘という事はすなわち、三島大明神=大山祇神という構造にもなってしまいます…
実は三島大明神の三島とは「御島」とも表記され、伊豆七島の中で最も噴火が激しかった島は三宅島であり、主に信仰の対象になっていたのは現在の三宅島だったそうです。由緒にも三宅島に宮を建てたと書いてあるので、特に三宅島が重要というか信仰対象になっていた事も分かりますね。
その三宅島は「御焼島」と呼ばれ、後に御焼島から御島へ、最後に現在の「三島」へ変化しました。
由緒では事代主命と同一視されていますが、元をたどればやはり、三宅島の噴火を鎮める為に荒れ狂う三宅島を神と仰ぎ祈られてきたと思います。
また、島という字に注目すると、島は「島」と「嶋」とも書き、必ず”山”という字が含まれている事に気づくだろうか?
つまり、島と山はイコールであり、島は海の神と思われがちですが、山の神としての性質が強く、古代では島と山はあまり区別をつけていなかったそうです。
なので、三島大明神は山の神である事にも納得できますが、事代主命と大山祇神が果たしてイコールになるのかが、引っかかるところです。(共に国津神ではあるが…)
由緒書きでは三島大明神は渡り歩いて来た神とされていますが、恐らく本来は三宅島を筆頭に荒ぶる伊豆の島々の鎮火を祈る為に神と仰ぎ、御島と称えられ、後に事代主命と同一視されたのではないかと思います。
伊古奈比咩命神社の境内
正面鳥居~拝殿
御祭神ばかり語っても進まないので、伊古奈比咩命神社の境内を紹介しましょう。
まずは境内図から。
地図で見ると神社すぐ目の前に国道があり、参道から拝殿本殿、その先には火達山と古代祭祀場、更に先には伊豆七島と、まさに島を拝む為に建てられた神社である事が分かりますね。
正面鳥居の前には短い太鼓橋が架けられています。
その太鼓橋の前はこんな感じで、目の前が道路になっています。お正月や繁忙期はどのように人を誘導するのか気になるところですが、道路沿いにある神社なので気軽に参拝しやすいです。
正面の鳥居です。
鳥居斜め前には伊豆最古の宮と書かれ、歴史の深いお宮である事を醸し出していますね。
鳥居を越えるとすぐに御神木が立っています。
樹齢二千年を誇る超長寿の御神木、その名も薬師のびゃくしん。
今から二千年前というと、西暦22年という事ですか~
たしか西暦57年は奴の国王が後漢の皇帝から金印を授かった年なので、その頃既に生えていた事になりますね!
薬師と書かれているので、健康のご利益もありそうです。
授与所の横には鶏小屋があり、よく見ると小屋には紙垂が取り付けられていました。
どうやら御神鶏のようですね。
鶏は古事記の天岩戸のシーンで登場し、岩戸から天照大御神を救出する際、鶏の鳴く声を合図に開始されます。
鶏が朝、日の出と共に鳴きだす事から、このような伝説のシーンに取り入れられたと思います。
この事から鶏は神様のお使いとして、また、鳥居の由来にもなったと言われています。
鶏小屋の隣には見目弁財天が祀られた社があります。
由緒書で登場する三島大明神をお守りする神様の一つで、后神を見つけ、めでたく后神と夫婦になられた事から縁結びの神様として崇敬されているそうです。
どうやら神仏習合時代には本地仏が弁財天だった事から現在では見目弁財天として親しまれています。
さて、正面に向くと立派な拝殿が建てられていますね。
この拝殿は万延元年に造営されたらしく、江戸時代末期の建造物です。
よく見ると彫刻が素晴らしく、近くで見るとその複雑さというか、今にも彫刻が動き出しそうな迫力もありますね~
延喜式にも載るほど霊験あらたかな神社で、かつては三島神社、伊古奈比咩神社となっていましたが、三島大明神とお供の神々が現在の三嶋大社遷座された為に、現在は伊古奈比咩命神社と言う名でこの地に鎮座しています。
ふと扁額を見てみると…
確かに二社の名前が書かれ、かつては二社で一つの神社であった事が分かりますね。
それにしても独特な文字というか、雲のような炎のような字ですね。
本殿へ向かう手前には境内社という末社があります。
ここには境内地に祀られていた二十六社と本社と縁のあるお社が合祀されているそうです。
階段が細く、滑りやすかったので参拝の際は注意しましょう。
荘厳な雰囲気を醸し出す本殿へ
さて、ここからは本殿へ向けての参道になり、見ての通りここから先は鬱蒼とした森の中になります。
参道は緩やかなカーブを描き、所々人の心に訴えるようなお言葉が掲げられています。
これって日によって違うのかな?
しかし、ここからほんの数十メートル先が海だって言うのに、それを感じさせない程清々しい山の雰囲気が漂い、登山を行っている感覚になります。
急な坂ではないので、安心して登る事ができます。
途中に目の神様が祀られている目の神社というお社があります。
説明書によると、どうやらこの辺りに大きなあすなろうという木があり、木の幹に水が入っていて、どんな時も枯れずにいる奇跡の水のようです。
相殿に祀られている見目と先ほどの見目弁天と違いがあるのかは分かりませんが、清らかな水は大抵神様として信仰されるので、このような水を司る神様も丁重に祀られていますね。
ちなみに、このような目の神様は御嶽山の五合目にある八海山神社も似たような言い伝えがあり、目の病が治る水として崇敬されています。
本殿入口に到着しました。
ここにも鳥居が建てられ、緊張感が漂いますが行きましょう。
本殿手前に到着しました。
鬱蒼とした木々に囲まれていますが、木々の隙間からの木漏れ日が何とも清々しい気分にさせてくれます。
本殿手前には囲いがあり、手前まで進む事はできません。
何でしょう…
神宮の内宮、外宮のような感じになっていて、いかにも神域という雰囲気が肌で感じます。
すぐ目の前が海なのに、伊豆半島の海岸沿いである事を忘れてしまう程、鬱蒼とした神域です。
先ほどの境内図によると、この本殿の奥には古代祭祀場があるみたいで、社殿が立ち上がる前には火達山の先端で海に浮かぶ火山を鎮める為のお祭りがされていたみたいです。
本殿から一直線に続く参道
本来なら拝殿からこの参道を歩いてくるのですが、頑なに閉鎖され歩く事ができません。
参道の両端には紙垂が取り付けられているので、例祭や祭典行事のみ神職がここを通るという事でしょうか?
まぁ先ほど歩いた参道があるので、恐らくここを歩くことはできないと思います。
ちなみに、後から気づいたのですが、本殿奥の古代祭祀場の隣に、御釜という場所があり、これは古代祭祀場と何か関係があるのでは?と思いました。
ひょったしたら白浜海岸から行けるのでは?と、写真を見直しましたが、鳥居の反対側は通行禁止となっており、どうやら行けなかったみたいです。
図で見ても、いまいち大きさや様子も分からず、御釜には今でも水が溜まっているのか?龍宮窟や天窓洞のような神秘的な洞窟なのか謎は深まるばかり…
しかしネットで調べるとなんと、実際に御釜まで行った人がいたらしく、その方は下田市の満潮・干潮表を入念に調べて作戦に出たそうで、実際に訪れた貴重なレポートがあるのでそちらもぜひご覧ください↓
火達祭の祭場でもある白浜海岸
さて、白浜神社の見どころと言っても過言ではない白浜海岸へ向かいましょう。
駐車場の後ろには白浜海岸入口を示す鳥居が建てられています。
鳥居を潜るとそこには素晴らしい光景が待っていました!
目の前の岩の先端にも鳥居が建てられ、いかにも海に向かって祈りを捧げる祭祀場のような光景が広がっています。
ちなみにここは白浜海水浴場としても開かれ、夏には多くの旅行者が訪れ海水浴を楽しむ場所にもなっています。
白浜という名前の通り、海岸沿いは見事な白い砂浜を成しています。
個人的に下田にはよく訪れますが、ドライブの途中いつもこの海岸の白さには驚きを隠せず、つい真っ白な砂浜を眺めながら車を走らせています。
海底火山の噴出物と、そこから削られた土砂が海底にたまって出来た地層で、貝殻やサンゴなどの化石が多数含まれている為に白い砂浜になったそうです。
しかし、見事に白い砂浜で、まるでどこかの海外へ訪れたような、南の島へ訪れたような感覚に見舞われますが、ここは伊豆なんですね!
さてさて、海水浴場として人気のある海岸ですが、実はこの砂浜は伊古奈比咩神社にとって物凄く大切な場所であり、年に一度の例祭の前日にはこの場所で火達祭と呼ばれる祭儀が行われます。
例祭前日の10月28日の午後5時に前夜祭が行われ、午後5時半よりこの砂浜で火達祭が行われます。
砂浜には七基の火達座を設け、松明によりそれぞれ点火し祭儀が行われます。この七基は海の向こうにある伊豆七島を模して設置されているらしく、中央の大きな火達座は三宅島を表しているそうです。
由緒書には三島大明神の祭典を知らせる合図の祭典と書かれていますが、七基の炎が燃え盛る火達座は、噴火が止まない荒ぶる伊豆七島を表し、本来は度重なる噴火を一刻も早く鎮静する事を島の神々に祈る行為であり、噴火を表した炎に対して行われるこの火達祭は、いかにも古代の人々は伊豆七島の噴火を怖れ、恐怖と隣り合わせで生きていた事を感じさせてくれます。
また、10月29日の例祭翌日の30日にはクライマックスである御幣流祭という祭儀は鳥居が建てられている大明神岩という舟形の岩の上で行われます。
御幣とは御幣(ごへい)又は幣帛(へいはく)とも言われ、神様に捧げる中でも衣服や布に相当するもので、後に串に紙垂を付けて奉る依り代的なものに変化し、神社の神前にもよく見かけると思います。
この御幣流祭は実際に七本の御幣を海へ投げ(捧げる)、伊豆七島の神様へお届けする神事で、午後4時頃に祭典が行われ、御幣を流し終える頃にちょうど日の入りを迎えるそうです。
それはまるで噴火から始まり(火達祭)祈りを捧げ(例祭)最後に日の入りと共に噴火が鎮静する(御幣流祭)という、人が火山と言う自然の猛威に対して敵対するのではなく、真心を込めて祈り、供え物を奉る事によって噴火は終わりを迎え、例祭全体が噴火鎮静までの物語のように思え、いかにも日本人らしい自然観が込められた祭儀だと思います。
さて、その大明神岩ですが、どうやら普通に行けるみたいですね。
足元に注意しながら進みましょう。
青い空、海、赤い鳥居と天気の良い日には物凄く映える光景です!
御幣流祭はまさにここで行われ、祭儀中は一気に神聖な場へ変化するのでしょうね。
大明神岩の反対側に向けて縄が張られていますが、これは注連縄でしょうか?
遠くから見るとこんな感じ
よく岩と岩に縄が張られていますが、ここも神域なのでやはり注連縄と見ていいでしょうか。
大明神岩の反対側は行こうと思えば行けますが、立ち入り禁止の看板が立てられている為、侵入禁止です。
ちなみに、大明神岩の全体はこんな感じです。
ご覧の通り見事な舟形をした岩で、先端に鳥居が建てられ、多くの人々が噴火の鎮静を願い、その祈りを伊豆七島へ運ぶ祈りの船のように感じます。
この日は天気が良かったものの、生憎モヤが発生していて、残念ながら遠くの伊豆七島を確認する事ができませんでした。
先端に立つとこんな感じ
御幣流祭の時はここに立って海に向かって御幣を投げるんですね。
夕暮れの時は怖いんじゃないかな…
大明神岩から白浜を眺める
奥の方まで真っ白な砂浜が続いている様子が分かりますね!
夏には多くの方で賑わいを見せてくれるでしょう。
伊古奈比咩神社参拝後は下田駅周辺に行こう!
伊古奈比咩神社から先へ進むと下田市街に到着します。
下田はご存知の通りペリー艦隊来航の地として有名で、下田市街には幕末から明治、大正時代の建造物も多く、歴史を感じられる町並みを味わう事ができます。
また、下田もジオスポットが豊富で、海岸沿いはエメラルドグリーンの美しい海を始め、美しくも恐ろしい奇景が素晴らしく、不思議と何度も足を運びたくなります。
道の駅開国下田みなともおすすめです。
お土産の種類が豊富で、食事は地魚が食べられるレストランや寿司屋の他、漁師飯を食べられるお店もあり、特におすすめは下田バーガーが食べられるハンバーガー屋さんです。
金目鯛のフライを挟んだ下田のご当地バーガーで、ここまでボリューミーな金目鯛はなかなかありませんので、ぜひ!ご賞味あれ!
下田の記事はこちらです↓
伊古奈比咩神社のアクセス、駐車場
アクセス
電車の場合は伊豆急下田駅から東海バスで「白浜神社前」下車。約10分
車の場合は熱海から国道135号を南下し、白浜まで約1時間半。
沼津ICからも車で約1時間半です。
駐車場
駐車場は神社の隣、白浜海岸入口である鳥居の前にあります。
参拝者は1時間無料。参拝以外の方は駐車料金1000円との事です。
最後に
伊豆の海水浴場の中でも人気の高い白浜海水浴場はその名の通り、見事な白い砂浜を成し、夏には多くの方が海水浴を楽しむスポットです。
その傍らの火達山に鎮座する伊古奈比咩神社はここが浜辺である事を忘れるほど鬱蒼とした森の中にあり、歴史を調べると遠くに浮かぶ伊豆七島の火山島の噴火を静める為の祈りの場である事が分かります。
現在は夏はレジャーとして賑わうものの、例祭は今でも当時の噴火の恐ろしさや恐怖を伝える祭儀が受け継がれ、夏の賑わいとは一変、厳粛な空気の漂う砂浜へと変化します。
天気の良い日には砂浜から伊豆七島を見渡せる絶景スポットで、神社の見どころでもある大明神岩はスリルを感じる場所であり、神聖な場所でもあります。
下田市街にも近く道路沿いに位置し、気軽に立ち寄る事も可能なので、下田を訪れた際には是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか。